滝止士と生前香典

滝止士たきとめしと生前香典

生1915(大正4)年~
没1994(平成6)年

 滝止士さんをご存じでしょうか。「恵庭光風会」は彼の想いを受け継いで誕生しました。その彼の物語を記したいと思います。

 砂川市に生まれた彼は、不慮の事故により右手を失う障がいを負ってしまいます。
ハンデを背負いながら教職を志し、1941(昭和16)年、岩見沢市立南国民学校にて初めて教壇に立ち、続く浦臼町鶴沼小学校での教育実践の中で、知的障がいを持つ児童に対して教育制度がない事への疑問を持ちます。

滝止士と生前香典

 1950(昭和25)年、GHQ(太平洋戦争後の日本を占領・管理するための組織)による勧告を受け、北海道初の特殊学級が札幌郡琴似町琴似小学校に出来ることになります。
しかし担任に名乗りを挙げる教師はいませんでした。そこでかねてより教育制度に疑問を持っていた彼に打診があり、彼は進んで引き受けます。以降、彼はその生涯を知的障がい者教育と支援に捧げました。

 1955(昭和30)年、北海道精神薄弱者育成会(現在の北海道手をつなぐ育成会)の設立に寄与し、成人施設の設立運動や、当時存在しなかった知的障がい児の高等教育機関の必要性を訴える陳情活動や啓蒙活動に尽力します。

 1965(昭和40)年、その活動は実を結び、国内初の独立校舎で職業訓練を行える高等部のみの養護学校「北海道白樺高等養護学校」が開校されました。

 高等学校設立という結実を成した後、成人期の知的障がい者を支える活動へと移る為、彼は教職を辞し、全国の先駆者たちを訪ねる旅に出ました。
ここで「近江学園」の糸賀一雄、田村一二らと交流を深め、北海道に戻ります。

 1968(昭和43)年、千歳市の「千歳いずみ学園」設立に尽力、初代園長となります。
知的障がい者と寝食を共にし、自立に向けた支援を職員と共に全力で行い、そして数多くの知的障がい者が巣立って行きました。

 1973(昭和48)年、彼は誰も聞いたことのない運動を始めます。それが「生前香典」運動です。「行き場のない、在宅の知的障がい者が暮らす場所を、新たに造り出したい。その為に自分に対する香典を、生きている今、いただきたい。」
この奇想天外な呼びかけは、日本全国で大反響を巻き起こしました。
新聞や雑誌、更にはテレビやラジオのニュース・ドキュメンタリーに取り上げられ、インターネットやSNSなどない時代に、その呼びかけは遠くアメリカの地まで響いていきました。子供から大人まで心揺さぶられ、街頭で募金運動を手伝うものも続出した、と当時の新聞記事に残っています。
結果、延べ4,000人を超える人々から 22,646,047円 もの香典が寄せられました。
(彼自身も100万円を自らで拠出しました)

 1978(昭和53)年、恵庭市において「三四会」という有志団体が障がい者成人施設の建設運動を行っていました。当時、北海道で「サンデー九」という福祉番組の司会をしていた故「坂本九」さんや、ねむの木学園創始者である故「宮城まり子」さんなどに協力をいただき、チャリティコンサートなどを開催していました。
そして「生前香典」はここに行き先を見つけました。
「生前香典」全額がこの建設運動に寄付されることになり、加えて「三四会」や恵庭市民の皆様からも、さらに寄付金28,000,000円余が寄せられたのです。

 1980(昭和55)年、障がい者支援施設「恵庭光と風の里」はこのような稀有な運命の基に開設されました。ゆえにわたしたちは滝止士さんはもちろん、日本全国、そして遠くアメリカからも寄せられた想いを受け継ぐ義務があるのです。

 最後に滝止士さんが最後に実践した取り組みもご紹介したいと思います。
それは「第一共育寮」というものです

 1976(昭和51)年、彼は札幌市白石区において、知的障がい者3名と共に、ひとつ屋根の下での暮らしを始めます。ここで彼らと寝食を共にし、ここから仕事へと通わせました。平成の時代に「グループホーム」という制度が出来る10年以上も前に、彼は地域の中で暮らし共に生きる、という実践を行っていたのです。

 「共生社会」という概念すら存在していなかった戦後の時代から、彼は一貫してその思想を持ち続け、そして体現してきました。そしてその想いは「恵庭光と風の里」という暮らしの場に、「恵庭光風会」という法人とわたしたちに受け継がれたのです。

 わたしたちはここに暮らし、集う人々を支え、そして共に生きることを決して忘れません。それが滝止士さんの遺志なのです。

※彼の生涯はSTVラジオの「ほっかいどう100年物語」にも取り上げられ、その内容は中西出版より刊行されている「同 下巻」にも掲載されています。

滝止士と生前香典